<   2010年 04月 ( 3 )   > この月の画像一覧

永源寺 山上にて


[PR]
by marslapin | 2010-04-10 10:11 | ブログ | Comments(0)

惟喬親王















説明するのがじゃまくさいが、自分も整理したいので、拝借



惟喬親王(これたかしんのう、承和 11年(844年 ) - 寛平 9年2月20日897年 3月30日 )は、平安時代 前期の皇族文徳天皇 の第一皇子。母は紀名虎 の娘・更衣 紀静子 。別名小野宮。同母妹に恬子内親王 がいる。当親王を支持した紀氏は、側近だった者らを顕彰し六歌仙 となったといわれる。

来歴・人物 [編集 ]

父・文徳天皇は皇太子 として第四皇子である惟仁親王(後の清和天皇 )を立てた後、惟喬親王にも惟仁親王が「長壮(成人)」に達するまで皇位を継承させようとしたが、藤原良房 の反対を危惧した源信 の諫言により実現できなかったといわれている(『吏部王記承平 元年9月4日条)。これは、惟喬親王の母が紀氏 の出身で後ろ盾が弱く、一方惟仁親王 の母が良房の娘明子 であったことによるものとされる。また、惟喬が惟仁の成人後に皇位を譲ったとしても双方の子孫による両統迭立 が可能性が生じ、奇しくも文徳天皇立太子の契機となった承和の変 の再来を危惧したとも考えられる。

ただ、この決定に対する不満が朝廷内部にあったとされ、100年以上経った後でさえその是非が議論の対象になったとされる(『権記 』寛弘8年5月27日条。この時も次期皇太子を巡る敦康親王 派と敦成親王 派(後の後一条天皇 )の確執があり、惟喬と敦康の境遇が類似していた)。

その後、大宰帥弾正尹常陸太守上野太守 を歴任した後出家 し、近江国 滋賀郡小野に隠棲。その後、山崎・水無瀬にも閑居し、在原業平紀有常 らと交流したといわれる。近江国 神崎郡 君ヶ畑をはじめ、木地師 のなかには惟喬親王を祖とする伝承が全国的に見られる。



大皇器地祖神社(おおきみきぢそじんじゃ)は、滋賀県 東近江市 永源寺町 に鎮座する神社である。旧社格は村社

寛平 10年の創祀と伝わる。惟喬親王 の伝承がある。明治 5年まで、正月、五月、九月に国家安泰・皇家永久の祈祷符を宮中に納めていた。惟喬親王がこの地に住まわれていた際、小椋信濃守久長と小椋伯耆守光吉に命じて木地の器を作らせたという。この伝承によって、当社を木地師の根源社と称している。白雲山小野宮大皇器地祖大明神と称したが、明治 15年に現社名に改められた。また、明治26年には内務省から保存資金が下賜された。旧村社



木地師

近江国 蛭谷(現滋賀県 東近江市 )で隠棲していた惟喬親王 が、周辺の杣人に木工技術を伝授したところから始まり、全国に広まった。

石川県 加賀市 山中温泉旧、西谷村 )真砂(まなご)地区[1] は惟喬親王を奉じる平家の落人 の村落と伝わり、主に木地師達の小村落であったり、山中漆器 の源とされる。朝倉氏 の庇護もあったが天正 元年の一乗谷城の戦い 以降は一部の木地師達は新天地を求めて加賀 から飛騨東北地方 に散って行ったとされる[2]

明治初期までは、全国各地で朝廷幕府 の許可を受けた木地師達が、定住地を持たずに良質な材木を求めて山中移動していたという。


[PR]
by marslapin | 2010-04-06 08:34 | 歴史探究シリーズ | Comments(0)

興福禅寺









元の名を大智山国分寺

勅願寺

寺領も賜ったお寺です



八日市は大戦中 飛行第6連体がおかれた町でもあります



時の住職は、憲兵に無理やりか はんこを押さされ寺領を没収

飛行場になってしまったようです



その後の農地改革でほとんどの寺領を失いましたが。

ご本尊の大日如来 薬師如来 阿弥陀如来 聖観音 四天王は



信長の焼き討ちや空襲を逃れ、なんとか・・・

時の住職は



それはそれは命がけで守ったのでしょう



聖武天皇のお位牌もあり



これは聖武天皇の命により行基が安置したものといわれていることと関係がありそうです








[PR]
by marslapin | 2010-04-06 08:04 | 歴史探究シリーズ | Comments(0)

まったく個人的なブログです。


by marslapin
プロフィールを見る
画像一覧